【コラム】全身で生きる(一訂)

身の回りにある「情報」を考えてみてください。皆さんの頭には何が浮んでくるでしょうか。
道路標識、テレビニュースの映像から、自分で書いたメモ
あるいは目に入ってくるもので意味があると感じたもの全て。身の回りは情報であふれています。

しかし、音や匂い、味や触覚を「思い浮かべた」人はどれくらいいるでしょうか。
ラジオの音や話し声だけでなく、コオロギの鳴き声や夕ご飯の香り、コンクリートを触った感触・・・
それらも立派な情報なのです。それなのに、実際にイメージした人は概して少ないはず。

そう、身の回りに情報はあふれています。
そして実は、我々は多くの情報を「見逃して」いるのです。

嗅覚や触覚、あるいは聴覚は、現代人の我々にとっては不確かな情報だと思うかもしれません。
味覚ですら、目を閉じれば食べたらもったいないじゃないか!と思うことがあるのではないのでしょうか。
しかし、そう主張する生き物はきっと我々だけでしょう。
現代の人間ほど視覚に頼りきっている動物はいないといわれます。
視覚以外の情報が不確かなのではなく、我々があまりにも視覚に頼りすぎているのです。

昨日聴いていたラジオで、日本放送文化大賞で準グランプリを獲得した番組が流れていました。
タイトルは「DIALOG IN THE DARK~見えないものを見るということ~」
ダイアログ・イン・ザ・ダークとは、1989年から世界各地で展開される“まっくらやみのエンターテイメント”
一切の光が遮断された空間の中を、参加者はアテンドさんにサポートされながら
暗闇の中で様々なシーンを体験していくというもので、それを特集したのが本番組でした。

手を目の前にかざしても、何も見えない。
知らない場所なのに、入ってくる情報は目に見えないものばかり。怖くて一歩も動けない。
しかし、そのような環境の中で、案内人は、さも全てが見えているかのように振舞います。
案内をするアテンドさんは、いわゆる「視覚障害者」という方たちです。
彼ら視覚障害者にしてみれば、明かりがあろうとなかろうと関係ありません。
視覚情報を遮断された世界など、日常と全く変わらないのです。
彼らは視覚以外の感覚をフル活用して生活しています。
視覚にばかり頼っているのはもったいないと、アテンドさんは言います。
「例えば『あ、花の匂いだ』、じゃなくて、『あ、ツツジだ』とか・・・」
「もっとリアルに感じられることがいっぱいある」と。
たとえ視覚以外の情報を捉えることができても
我々はそれを「立体的」に、「具体的」に感じることができるでしょうか。

我々は、とても贅沢な生物だと思います。
「真実を知りたいならば、その目を閉じればいい」

彼らは視覚を持っていないけど、それは我々と比べて何か欠けているわけではなく
むしろとても豊かな生き方をしている「個性」を持った人間なのです。
普段はを使っていても、目を閉じた瞬間、こんなに情報があったのかと驚かされるでしょう。
ほんのちょっとしたことでそれは体験が可能です。今この瞬間でも、ほら。
そして心を澄ませば、些細な差異への執着を忘れます。

また、たとえば世の中にはたくさんの「サイン」があふれています。
全て視覚に置き換える。見たければ映像を用意する。便利な世の中です。
しかし、それをそれだけだと思ったとたん、世界は平べったくなります。
ややもすれば、全てが錯覚に変わってしまうのです。偏見も生まれてしまいます。

全身で生きるということは、当たり前かもしれません。
しかし、深い意味でそれを実践するというのは、そう簡単ではないのではないでしょうか。
例えばこれは僕の経験ですが、僕は小さい頃、自分が本当に存在するのか不安になったことがありました。
鏡を見れば自分の体や顔を見ることはできるけれど
普段は自分が自分の中心にいるのに、目の前の世界に自分を見ることはできません。
そう思ったら体がなくなり、モニターに映ったような映像だけが、「僕自身」になりました。
もちろん触覚や匂い、音だって感じましたが、やはり、視覚に大きく支配されていたのでしょう。
目から入るものが世界の全てでした。
それでも、鼻が詰まれば息をしていたことがわかります。
熱が出れば、自分には体があったことがわかります。
そしてそういうときこそ、意外と新鮮な世界を感じたりするのです。
目に見える「世界」だけでは世界ではありません。全身で生きるとは、そういうことです。

裸足になり、ぼこぼこした丸太の上を歩きます。
伝わってくるのは、「痛い」という情報。
今度は目を瞑って同じ場所を歩きます。
伝わってくるものは、「木の感触」という情報に変わります。
あらゆる感覚を研ぎ澄ませて感じてみましょう。
大切なものは何なのか、少しだけ、わかるかもしれません。


p.s.
自然保護をするにしたって、視覚情報だけを重要視してはいけないのだと痛感します。
こんなに視覚に頼っているのは、人間の現代社会だけなのですから。
それだけの自然保護はまさに錯覚なのではないでしょうか。
人ごみから抜け出したら、まず目を瞑って深呼吸をしてみましょう。
リラックスのためだけでなく、視覚以外の感覚を開放するために。
例えば森に入ったら、裸足になって歩いてみるといいでしょう。とても豊かな感覚を得ます。
耳を済ませましょう、生き物たちの息が聞こえますか?
鼻を利かせましょう、川のにおいがわかりますか?
口を開けましょう。空気の味がわかりますか?
それら全てがその「森」なのです。
それを我々は、どれだけ感じることができるのでしょうか。