【雑想】尺度を持つということ(未訂)

尺度に囚われては尺度を持つ意味がないと思う

尺度を持つ大事な意義とは「何に」囚われないのかを明確にすることである

考えもなしにとりとめのないことを繰り返していても意味がない

白紙の紙を「見ろ」と言って見せられるようなものである

そこにある軸があったなら、自分がその軸からどれくらいぶれているのか

あるいは他の軸があるのかもしれないということが

軸を基盤にすることで、あるいは基準にすることで「可視化」される

焦点が定まってくると言っても良い

白紙に黒い点をひとつ落とせば、まず眼の遣りどころができるのである

現代における人間の「情報」という概念は、あいまいな事象を対象としないきらいがある

それの是非はともかくとして、そのようにすることで自分の行動や思考さえも

比較的把握しやすくできるのである

重要なのは、「自分の尺度」をどのように使うかである

頭の固い人は、自分の考えに固執し、全く周りが見えていない

そんな人の話を一度は聞いたことがあるだろう

しかし、自分の中から一切の思想を排して仕事をするようなら

それはただの機械か、「優秀な」道具でしかない

もちろんそれを受容するのなら、この文章の方が無価値なのだが

もしそうでないなら、どうしたらいいのだろう

自分なりの「軸」を持っていることは決して悪いことではない

それを「過剰に」意識していることが問題なのである

それにわざわざしがみついている必要などはどこにもない

別に意識していなくとも、確固としたモノを持った人は

行動も思考も自ずと収斂してくる

芯のある人間というものは、えてしてそういう人物ではなかろうか

それでいて、その軸から自由に羽ばたくだけの余裕が頭には残っている

むしろ無秩序な頭の中より整頓されていて、案外スッキリしているかもしれない

もちろんここまで語ると想像の話でしかないのであるが

意識しないというのは容易いことではない

それだけの経験をつむことが必要なのだろう

柔軟な姿勢で取り組まねば斬新なアイディアは生まれない

しかし、いくら柔らかい頭と言っても、何もなければ

アイディアの「種」となるものが存在しなければ

何も生まれないのは自明である

それがたった一片の塵だったとしても

それを舞い上げるためのベースが

軸を形作るだけの精神的、肉体的「経験」が、必要なのだと思う。

だがいつかその軸が障害となったときがくるならば

そのときは選択を迫られるだろう

たとえば二つの軸がねじれの関係で近づいてきたとき

接点を持つだけで話が収まる事態じゃないのなら

どちらかは曲がるか方向転換をするか、あるいは同調する定めにあるし

両者譲らなければ、けんかが起こってしまう

また軸そのものが危険な方向へ向っていれば

それを止めろと強制する権利を持つものがどこにもいないならば

それも大きな悲劇が待っている

それを、我々は歴史を通してよく知っているはずだ

いつまで無垢に先を見据えればいいのか

われわれは未来から、過去から、「今」でさえ、問いかけられている


要約:
自分なりの尺度を持とう
そしてそこから羽ばたこう
そうすれば見えてくるものがある
ただ道を誤るな

(執筆:ezolisu2323)