哲学シリーズ1:土地のアイデンティティ・中

ところで今まで「森林」という言葉を散々使ってきたが、その意味はどのように捉えられてきたのだろうか。

その定義は実はあいまいなところで、いろいろな辞書をあたってみてもはっきりとした記述は出てこない。そこでここにひとつの見解を置くことにする。

「森林とは、高木を主体とした社会空間である」

社会とは、簡単に言い換えれば生態系のことだ。木々の連なりや個々の生物だけでは十分ではない。それぞれの目に見えない結びつきがあり、エネルギーの流れがあり、土壌があり、外界と異なる環境を抱く空間があって始めて森林という。

森林浴という気晴らし方法があるように、森林の中に入ったとき、我々は外界とはどこか異なる空気を感じとるだろう。それこそが、空間としての森林の認知にかなり近いのものではないかと思う。

生態系のみならず、地上部においては空間こそを森林とみなすのであれば、ここまで述べてきたことに関わる、さらに深い解釈を得ることができる。

潜在的な森林は現存の森林ではないにしろ、潜在的な森林を内包する空間は、今もビル街の中に静かに横たわっているのである。

ならば、我々は今も事実上、「森林」の中に住んでいるのではないか。

土地、というのは、単に地面だけを指すのではない。大まかに言えば、地面、地中、そして空中すなわち空間である。

この島という土地は、今なお森林としての空間を抱えている。そんな予感と、本来の土地の姿を忘れて生きる我々に対する危機感が湧き上がってくるのを、俺はこの考えに至ったとき感じたのだった。

しかしその考えは一方で、ある種の危険思想を招くことに注意しなければなるまい。



7月のある日、俺は定山渓に繋がる道をひたすら歩いていた。目指していたのは、中山峠を越えた先、羊蹄山だ。

察しているかもしれないが、俺は今年に入って急に山登りが好きになった。しかしまた察しているかもしれないが、俺の登り方は相当変わっている。

故にそのやり方で頂を目指すときは誰も誘う気にはなれないのだが、当然皆さんは疑問に思うことだろう。なぜ「歩いて」登りに行くのか、と。

金が無い。それもある、が、最近は明らかな動機がある。端的に言えば「切り取った」自然がイヤなのだ。

それは北海道の土地利用形式とか、現代文明における登山あるいは登山ブームへのささやかなる抵抗であった。しかし話すとややこしいので詳細は割愛しよう。

むさ苦しい雨の中をとぼとぼ歩く中でも、俺は常に「潜在的な森林」を探していた。

しかし、だ。

歩くときは主に夜である。日帰りならば朝に登山口に着いて登り始めることができる。今回も出発は夜だったが、翌日は終日歩く予定だった。

ところが夜が明けてみると、周りの景色が鮮明に見え始め、俺は混乱した。森林ではなくとも息づいていた確かな営みに目を向けざるを得ないことに気づかされたのだ。

潜在的な姿以前に、ここには現在の姿がある。人工的であれ、そこに営みがある。人が住んでいる。街路樹があり、草があり、集まる動物がある。それは全く確かなことだ。

では、亡霊のような景色を描いていた俺は、果たして間違っていたのだろうか。



例えばこんな理屈はどうだろう。

理科の教科書で見たことがあるだろうか。最初に裸地があり、そこにコケが生え、草が生え、そのうち木が生えてもっさりしてめでたしめでたし、という一連の図である。それが遷移の説明であることはいうまでもない。

しかし、この図はかなり単純化されていることが指摘される。

第一に、遷移はもっさりして終わりではない。土地の環境は森林をはぐくむ一方で、常に破壊を繰り返すものである。

例えば台風で木々をなぎ倒せば、そこに空間、すなわちギャップができる。その陽だまりを子孫繁栄の要にしている植物がいる。そうして破壊と再生が繰り返され、全体として生態系が安定する。いわゆるギャップ・ダイナミクスである。

我々や、おそらく他の生物にとっても自然災害は脅威だが、生態系はそれを重要な要素として含んだ上で、ただ究極に向うだけの一方向的な動きでなく、「動的な平衡」を保っているのだ。

そして第二に、同一気候条件下であっても、遷移の方向、極性の状態は一つではない、という多極相説の存在である。
さっきから植生には気候条件が影響を与えると言ってきたが、気候による影響のみを考え、同じ気候下では一様の気候的極相状態が成立するという考えを単極相説という。

しかし、影響を与えるのは気候だけでなく、ほかにももっといろいろな要素が存在するだろう、というのが多極相説である。
例えば土壌条件、あるいは地形条件、そして、生物条件といったものである。

生物の条件とはようするに、生物が植生にかける圧力である。圧力をかける生物は外部からのものではなく、生態系の一要員として捉える。

生態系の中で養われる動物自身もその生態系を支えている。その中には、気候的撹乱とまでは行かなくとも、生物が環境に与えるストレス「も含んでおり、それはその生態系にとっては必要な要素である。生物圧の程度がどうであれ、その状態である程度生態系が安定するのなら、極相である。とくに他の要素に比べ、生物圧がその極相状態に強く反映されていればそれを生物的極相ということにする。

例えば牧場は、人間の手入れと家畜による草の披食という生物圧が草原からの遷移を妨げ、草原の状態で安定を保っている。これを生物的極相ということもできよう。

さて、今我々が住んでいる場所の周りに、生物的な極相は見つかるだろうか。

我々が住んでいる町そのものが、人間の生物圧に支配される生物的極相ではないのか。

生えているのは街路樹と庭の花と公園の芝生、他は道路をアスファルトが覆って植物の育成を妨げる。空には高いビルがそびえたつ。一帯をヒートアイランド現象がすっぽり覆い、高密度の人、人、人。

そんな「不自然」な人工的環境も、ヒトによる甚だしい生物圧が与えた結果だと解釈すれば、自然としての生態系だと捉えうる。

しかし、そこは森林の土地だということを強調すれば、街の姿などは存在を否定することにも繋がろう。

その生態系、は潜在的な森林に対して「本来的ではない」生態系なのだろうか、というのがここで問いたい問題である。

話の流れから言えば、街という土地利用も本来的でない、つまりそこにあるべきではない、という存在とは言い切れない。それはそこで絶え間ない営みを続け、生存に直接かかわってくる我々が理解するところだろう。そもそも自然は「本来的な姿」を最初から有しているわけではなく、そう見える姿をそうと勝手に解釈しているだけなのである。

今土地利用という言葉を使ったが、土地利用形態によって日本の土地が色分けされた図がある。そこに書かれている全ては、正当も不当もなく、現存する土地利用形態として平等なものである。それを過小評価してしまえば、「本来の姿」を追求し、我々の存在を否定したところで、潜在的な森林という言葉は本当に幻想でしかない。



もちろん、俺が歩くときも、全てが森林だと信じながら歩いていたわけではない。実際の土地利用はまっすぐに向かい合い、人間の行為と森林との付き合い方について真摯に考えていくこともいつしか歩くことの目的になっていた。

だが、夜というものは昼と比べ、街と森林の差を大幅に縮める時間帯だ。まず昼と違ってどちらも暗い。太陽光による熱もないから気温も似てくるだろう。森林特有の気候も特異性は和らぐかもしれない。生命活動も、夜行性動物以外はどちらもひっそりと静まっている。そしてなにより、視覚情報が非常に制限される。

そんななかで、俺は土地と対話をする。霊体験とまでは言わないが、潜在的な姿を垣間見た気分になる。これは確かなことだ。若干懐古主義的かも知れないが。

そういった行為は、いったいどのような意義をもたらすのだろうか。潜在的な森林とは結局、どのような意義を持つのだろうか。