【コラム】植物生産あれこれ(一訂)

○古いデータに疑問

 1995年に発刊された経済学批判某学術書に、土地利用別に見た生産量を示す表が載っていた。ここで取りざたにされているのは植物の作用のみに着目した場合の有機物の増分、いわゆる「純一次生産量」だと思われる。項目は乾重量と熱量の二つに分かれている。「エネルギー生産量によって経済を評価できるのではないか」と考えた昔の人が、一生懸命これを調べたらしい。大変な努力である。さて、どんな結果が出たのか、以下に乾重量の数値を引用してみよう。
・森林(たぶん自然林) 900
・自然草地 2500
・人工的な牧草地 3100(種子を除く)
・小麦畑 2800(小麦+麦わら)
   ※単位はいずれも kg/ha/yr (S. Podolonski 1880)
 結果を見るかぎり、自然状態(に近い)土地よりも、人の手が入った土地の方が生産量が大きい。熱量に換算するとその差は縮まるものの、順位が変わるわけではない。昔の人、ポドリンスキーは、このことから、「人間の労働の価値は、固定されるエネルギーの増加量で評価することが出来る」と考えたそうだ。
 果敢なポドリンスキー氏は、この仮説をマルクスやらエンゲルスやらの経済学者に提示したが、残念ながら受け入れられず、今日に至るまで広く認められてはいない。本書の筆者もこれを嘆いている。ところで、このデータ、正しいのだろうか?
 本書の論旨やポドリンスキーの理論から外れて、ちょっと気になってしまった。森林の生産量があまりにも少なくはないだろうか。そりゃあ、根を張りやすいように耕し、施肥した裸地に草を生やすと旺盛な生育が実現されるだろう。しかし、例えば畑に施肥するのは、ある意味では何度も収穫によって養分が失われるからだといえる。だが自然林は違う。大くの栄養が循環するだろう。また、小麦だと葉が斜めに立ち上がりかつ高密度に育つため、面積辺りの葉面積が大きく、その分光合成も捗るわけだが、階層構造を持つ森林にしても、葉が立体的に配置されているため、面積辺りの葉面積はかなり大きいはずである。それなのに、こんなに違いが出てしまうのだろうか。

○実際、森林の純一次生産量は・・・

 そこで、森林生態学の教科書(岩坪編 2003)を見てみた。これには、Ajtayさんが調べた生態系型ごとの純生産量が掲載されている。
熱帯雨林 23000
・熱帯季節林 16000
マングローブ林 10000
・温帯常緑林 15000
・温帯落葉樹林 13000
・北方林(閉鎖林) 8500
   ※単位はいずれも kg/ha/yr (Ajtay 1979)
森林についてのデータは以上のほか、疎林などもあるが、今回引用するのはこのくらいにしておこう。荒っぽく比較してみた結果、何度も桁を間違っていないか確かめたが、どうやら間違っていたのは私の引用ではなくポドリンスキー氏の調査結果のようである。ポドリンスキー氏の出身地はウクライナであり、調査の際には当地の森林だけを考慮した可能性が高いとはいえ、当地が属する冷帯~温帯の森林について見てみても、Ajtayバージョンの純生産量はポドリンスキー氏による森林の値より明らかに大きい。のみならず、氏による人口的な草地や小麦畑の値より大きい。これでは氏の仮説が否定されてしまう、というのはまた別の話としよう。
 ちなみに、同じ表に温帯単年作物の純生産量も記載されており、こちらは12000 kg/ha/yrであった。荒っぽく比較すると、これもポドリンスキー氏の出した値よりは大きいが、作物に関しては生産量の評価が比較的容易と考えられるから、この差は調査精度の問題というよりは、むしろ技術進歩によって増収した効果がかなり強く反映されたためといえるだろう。現在はこの値よりさらに作物収量が増加していると思われる。とはいえ、今回の値についていえば、同じ温帯にある森林の純生産量とどっこいどっこいである。

○炭素固定のエースは湿原

 森林の中で最も純一次生産量が大きいのは熱帯雨林だが、全生態系の中で一番の量というわけではない。Ajtayのデータによれば、草原サバナが熱帯多雨林と同水準の純一次生産量を示しており、温帯湿原はそれらよりもやや高水準の25000 kg/ha/yrである。熱帯湿原に至っては40000 kg/ha/yrという圧倒的な値を示している。温帯湿原の表土は黒泥が多いのに対し、冷帯の湿原の表土は泥炭で、Ajtayによれば泥炭地の純一次生産量は10000 kg/ha/yrにとどまっているものの、これでも北方林の純一次生産よりは大きい。他の文献には、泥炭地は純一次生産量が森林や草地と比較して約2~10倍高いとしているものもある(谷ら 1998)。
 一般的に、湿地は湛水などの影響で植物遺体の分解が芳しくない。したがってそこからリサイクルされる無機塩類も少ない。ただし、そうやって残存した有機物は漂っている無機塩類をよく吸着するから、無機塩類の供給さえあれば、植物はそれを効率よく利用することが可能である。そして、実際無機塩類は湿原内に流入する河川及び地下水に乗って流されてくる。これが湿原の高い生産量をもたらしているのだろう。
 もっとも、若干標高が高いために地下水や河川を植物が利用できない高層湿原(北方にできる)は、このロジックが通用しないことに注意しておきたい。貧栄養を反映して高層湿原に優占するミズゴケ類は、おそらくかなり純一次生産量が小さいと考えられる。しかしいずれにせよ、植物遺体が積もってできた泥炭は、炭素の巨大な貯蔵庫でもある。炭素といえば地球温暖化。温暖化対策の観点から湿原の保全が重要なのはいうまでもない。日本にはないが、熱帯における湿性林の木質泥炭というのも、近年はかなり注目されている。
 そういえば、開発で泥炭地を破壊することだけでなく、上流域から土砂や窒素肥料などが流れてくることでも泥炭は減る。栄養を効率よく利用する菌が増えたり、乾燥化が進むことで、泥炭が蓄積しなくなったり、蓄積された泥炭が急速に分解されたりするのである。したがって、湿原の保全をするなら上流域の配慮もあおがねばならない。なかなか大変な事だ。

○ミズゴケは本気出せていない?
 
 よもやま話の終わりに、先に触れたミズゴケについて、もう少し語ってみる。
 ミズゴケは木質の軸や貯水細胞といった特殊な構造を持つ蘚類の一群である。周囲より少し高くなったところにこのミズゴケが成長・堆積して、さらに地表の高まった高層湿原が出来上がる。栄養の要求量や植物体の保水力などは種によって異なり、育ちやすい環境にも差異があるため、ミズゴケが堆積していく中で、育つミズゴケの種は何種類も交代する。植物遺体の毛管現象によって地下水位は引き上げられるが、こんもり堆積するとさすがに乾燥する。そこにはたくさんの高山植物などが生育し、大量の土壌動物が蠢いている。乾燥するとミズゴケは育つことができないため、やがて異常に盛り上がった体積は崩壊し、また盛り返す、ということを、高層湿原は長年かけて繰り返す。
 ウィキペディアによれば、ミズゴケは熱帯から幅広く分布するが冷帯に多く、主に湿地に生育するという。ところが、冷帯に生えるミズゴケが生理的にもっとも生育に適している温度は、25℃から35℃の範囲にあるという研究結果が存在する(山田 2004)。光合成速度を測ったら、どのミズゴケにしても、光合成の最大速度は30℃前後の環境下でもっとも高かったというのだ。さらに低い気温のときに光を強くしていくと、無駄に受け取ってしまったエネルギーの作用で光合成がさがる。これらの結果は、もっと温かな場所のほうが冷帯のミズゴケは光合成能力を発揮できる、ということを示している。きっと呼吸量を差し引いた「見かけの光合成速度」についても同じことがいえるだろうから、その蓄積となる純一次生産量も、ミズゴケは本来の能力に見合った成果を出せていないことになる。
 なぜこんな不利な条件の土地に、ミズゴケはわざわざ生育しているのか。答えは簡単。生理的に最適な土地だとミズゴケは他の植物との競争に負けるからだ。一方、湿原は多くの植物にとって不利な条件なので、比較的生存に有利だったミズゴケが優占できる。つまり湿原はミズゴケの相対的な生育最適地、生態的最適域なのである。このように、生理的な適地と生態的な適地が一致しない場合は数多くみられる。ミズゴケの上の高山植物にしても同じことがいえたりする。
 もちろん、ミズゴケは高層湿原での生育により適するように適応進化することも将来的にはありえる。しかし現状からいえば、高い生産量を叩きだすことばかりが良いことではない、という教訓じみたものを、したたかに生きるミズゴケはなんとなく体現しているような気がする。
 
 なんでこんなことを書いているのか分からなくなったところで、今回はこれにて。(出典省略)